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2013年3月28日木曜日

【小説】泡になりたい、君と。〈No.6〉


その日の授業も、おそらく日常という言葉で形容される内容であった。僕の授業は平坦である。極力、抑揚をつけず、同じテンポで同じ口調で話すように心がけている。それは、刺激を求めている生徒には不評であった。しかし、平穏を求めている生徒には癒しの空間であり、自分のペースで学習ができると、大変好評であった。予備校生であっても平穏は大事である。毎年ある一定数の生徒は必ず平穏を求めており、自分の間合いを理解した上で席に座り、講師のスタンスを観察しながら的確に受講する授業を決めている。僕はそういった一種の類まれなる生徒のみを対象とした授業を展開している。


予備校を出たのは、23時だった。よく考えると、僕は11時に家を出ているので、まる12時間も働いていたんだな、と考えながら職場近くの行きつけのBar に入った。もうここ数年はずっと仕事終わりにお世話になっている。席はカウンターしか無く、決して小洒落てはいない。ただ、駅前の路地の、その地下におもむろに存在しているという立地条件に僕はひどく心を打たれた為、こうして通っている。


そしてマスターのカゲロウさんにビールを頼んだ。ここのビールは本当に旨い。おそらく大方の人間が最初はビールが嫌いなように、僕もそうだった。何を隠そう泡が嫌いだった。注がれたばかりの泡が勢い良くはじけ、麦芽の独特の匂いが鼻を刺激する。それに若い頃はたまらなく嫌悪感を覚えた。ある時は憎しみの感情さえ抱いていた。それがいつからだろう。気がついた時にはその泡に取り憑かれ、病的にそれを求めるようになっていた。時間の流れとはそういうものだ。僕はカゲロウさんが入れてくれた渾身のビールにあえて焦点を合わさず、ビールへ思いを馳せていた。ぼやけながらもビールの泡が今日も勢い良くはじけているのは感覚的に認識できた。一見、クリーミーなその泡に僕は自分自身のふがいない人生を重ねた。

不安定な木曜日, ノムラカズユキ