ぼくは小・中・高校時代、ずっと野球部に入っていた。
今週からは少し、その当時の思い出と髪型を振り返りたいと思う。
小学生時代
ぼくが通っていた小学校には少年野球部がなかったので、小学3年生のとき、隣の東山小学校の野球部か夢野小学校の野球部に入部させてもらおうと親父のユウジと一緒に見学に行った。
当時からぼくはすごく人見知りで、初めて会う人やグループ、特にこういった既存団体への見学などの行為が本当にダメで、行く前に吐きそうになっていたことはしっかりと憶えているし、今も単身でそういった行為をすることはとても苦手だ。
当時の髪型は、前髪が残った角刈りだった。
ユウジが前面に出てその2チームのコーチや監督と話してくれた。
どちらともすごく雰囲気のいいチームだったけれど、ぼくは2チームを見に行った瞬間に東山小学校の少年野球部に入ろうと決めていた。
理由はユニホームが青色でとてもかっこよかったから。
髪の毛はひと月に一度、必ず最寄りの散髪屋「ユーカリ」に通っていた。
東山少年野球部には無事に入部できた。
しかし別の小学校から通っていたということもあり、友人が一人もいず、顔見知りも一人もいなかったということもあり、人見知りはすごかったけれど、すぐにヨシノリというとても優しい同級生が友達になってくれたし、いじめられたけど優しかった先輩(名前忘れた)も家の近くに住んでいて帰りは一緒に帰ってくれたので、大丈夫だった。
通っていたユーカリはとても親切で優しい夫婦が営まれていて、毎回散髪が終われば色々なお菓子が詰められたビニール袋を手渡してくれた。散髪からの帰り道、いつも入っているプロ野球チップスを食べながら窓ガラスに映る自分の角刈りっぷりにため息をついた。次に日、学校に行くのがとても嫌だった。
東山少年野球部に入部し1年が経ったころには、同じ小学校から下の名前を呼び捨てにしたらむちゃくちゃ怒ったコウジ(
以前の記事「【コラム欄】コウジとの思い出」参照)や多くの友人が越境して東山少年野球部に入部した。
小学6年生のときには越境組がチームの半分を占めるほどになった。
そしてぼくがキャプテン、ユウジが監督となり、チームは神戸市3位になった。
その頃、小学6年生となっても相変わらずユーカリに通い、角刈りにされていた。
当時のぼくにはまず「床屋を代える」という思考はなぜかなかった。
だが、ユーカリに行く曜日はちゃんと考えてから行った。
例えば3連休前の放課後。
こうすれば、いくら一分の狂いのない見事な角刈りになったとしても3日間の「慣れ」が生じる。
自分の顔ととげとげしい髪型が丸みを帯び、マッチしてゆく・・・
連休中にできるだけそうなり、休み明けに半笑いで「ふじもっちゃんおはよう!あ、髪の毛きった?(笑)」と話してくる同級生を一人でもなくしたいと願った。
しかし、実際には連休中に「慣れた」のは「ぼくの目」だけであり、休み明けには何人もの同級生に「あ、髪の毛きった?」と、いや見たらわかるやろ、というひどい質問をかけられ続けた。
小学6年生の時のある練習試合の日曜日、その日は監督だったユウジの誕生日だった。
ぼくは打席に入る前にふとそれを思い出した。ホームランを打ちたいと思った。
何球目か忘れたがスイングすると、ポンとフラフラ打球が舞い上がり、風に乗ってライトスタンドに入った。
小中高の野球人生でホームランを2本しか打ったことはないけど、ユウジの誕生日に打てて良かったと思う。
冬でもぼくは角刈りだった。
とても寒かったし、やはり恥ずかしかった。
横はいつも3ミリぐらい。トップもさほど変わらなかっただろう。
横からトップに向かう角度は90度。両サイドとも見事な直角であった。
ただし、前髪だけは2センチ〜3センチはあった。
いつも素晴らしいぼく仕様のきれいな角刈りが出来上がった。
恥ずかしかった。
でもとても親切で優しいユーカリのご夫婦を責める気持ちは全くなかった。
ただ、別に要望は伝えてもいいのではないかといつも思っていた。
そしてある時、一度だけ髪型の希望を伝えたことがある。
フジモト「すいません、少しだけ(トップを触りながら)長めにお願いできますか?」
奥さん 「わかりました」
言えた。ついに言えた。ご夫婦を傷つけることなく、角刈りは嫌だ、おしゃれボウズにしてくれと希望を伝えることができた。
ぼくは安堵して、いつもと同じようにスラムダンク30・31巻を手にし、鏡の前に座った。
スラムダンクのストーリーに感動し涙をこらえ読み終える頃、奥さんに「どうですか?」と声をかけられた。
鏡に目をやるとすこし長めの素晴らしい角刈りのぼくがいた。
《次週》
フジモト学生時代の野球部の思い出と髪型〜中学生時代〜
ど田舎の水曜日,フジモトユウキ