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2012年9月28日金曜日

【来客は金曜日】あまのじゃくでいこう最終回

自由は不自由


誰かに何かを依頼されたときや逆にこちらが何かの要望をきいたとき、テーマや制限、条件もなく「何でもいいです。お任せします。」という場合が往々にしてあります(一番最初にmufufuの記事を書かせてもらうことになったときもそうでした!)。


これは一見とても自由でいろんな可能性を含んでいて、しかもやり甲斐がありそうですが、私の場合、実はものすごく困ります。


なぜかというと、ひとつは、単純に何もないところから何かを生み出す能力がまったくないから。



何も思い浮かばない。


どうしたらいいかわからない。(情けない。)


もうひとつは、「何でもいい」といったって、本当に何でもいいわけではないということがほとんどだから。


当たり前ですが、それなりのものは用意しないといけない。


よくデートのとき男性が女性に「何食べたい?」ときいて「何でもいい」と答えるから「じゃあ、ラーメン」というと「えー、やだ」とい われて「何でもよくないじゃないか」となるなんて話と同じです(たぶん)。

 

だから、少なくともヒントのようなものがほしいのです。


テーマを与えられたり、制限、条件、ルールなどがあったりすると不思議なことにいろいろとアイデアがわいてきます。

 

料理でいうと「まかない」がいい例。使う材料やかけられる時間、そのほかにもさまざまな制約がある中でいかにおいしいものを作るか。作れるか。メニューを先に決めてそのために材料を調達して作るやり方より工夫が必要とされると思います。また、今ある限られたものの中で何が作れるか考える方が創造の楽しみがある(想像の楽しみも)。そういう意味では食べられる時季が決まっている旬の露地栽培の野菜にも同じ楽しみがあります。


歴史を振り返ってみても、すごい発明や新商品などはみんなそんな中から生まれたのではないかなぁ。


予算や材料や時間が潤沢にあり、「何でもいいから作ってごらん」という環境ではいいものを生み出すのはかえってむずかしいのではないかなぁ。

 

「今ある限られたものの中で何ができるか考える方が創造の楽しみがある」。


不自由の中に自由が潜んでいる。


これって仕事に限らず日々の暮らし、ひいては人生においてもいえることかもしれないですね。


丹波産の梨をいただく。包み紙の質感と印刷のかすれ具合に胸きゅん。

来客は金曜日、セハタサチ