RSSリーダーで購読する

Google Readerへ追加

2012年9月11日火曜日

【コラム欄】とにかく読んでほしいエッセイがある

先日、宮沢章夫というひとの「よくわからないねじ」というエッセイ集を人に借りた。

ぼくは本を読むのはまぁ普通に好きなんだけど、とにかく本を選ぶセンスがなくて、自分で買った小説なんかは十分の一も読まずに閉じることも多い。

だからもはや自分で小説を買うことを諦めている。

で、この「よくわからないねじ」をすすめてもらい読んでいるのだけど、これがとてつもなくおもしろい。もう二度と自分で本など買うかと思うくらいおもしろい。

そしてそのなかのエッセイのひとつ「だめに向かって」というものがまた抜群におもしろい。
とにかくこれを読んでほしい。

ぼくも人に本をすすめたい。

以下、一字一句そのままそのエッセイを載せてしまうことにするけど、どうか、一部抜粋ということで許してほしい。なんつって。

横書きなのが読みにくくて申し訳ないのだけど、こちらも書き起こすのも楽ではなかったので、少し我慢してほしいと思う。

それでは、良い一日を。


ひとり歩きの火曜日,ツノダヤマト

 「だめに向かって」

 私は「だめ人間」に憧れる。
 人は多かれ少なかれ、誰でも一様に、「だめ人間的なるもの」を内包しているもので、「いや、おれは、しっかり者だよ」などと考えるのは勘違いも甚だしい。ある者は、電話の対応がちゃんと出来ないだめ人間であり、また別の者は、目的の場所に行こうとしても必ず道に迷うことにおいてだめ人間である。しかし、私が憧れる「だめ人間」はその程度のだめではない。
 だめをきわめれば、そこに聖性が出現する。
 もう、だめでだめでどうしようもない。あー、だめだ、ほんとにだめだといった果てにたどりつくそれは、凡人の市民生活とはまったく無縁のものだ。家に帰れば温かい風呂があり、湯船につかって幸福を感じるような小市民に、「だめ人間」の聖性など想像もおよばないだろう。ではいったい、「真のだめ人間」とは何か。
 よく知られているだめ人間といえば、誰もがまっさきに思い浮かべるのは、太宰治ではないか。「だめ人間」のモデルとして太宰は有名だが、同時に私たちが思い浮かべるのは、三島由紀夫が、太宰の文学をひどく嫌悪していたことだ。
 三島由紀夫は、日記体で書かれた『小説家の休暇』というエッセイの中で、太宰について次のように書いている。
「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」
 はじめてこれを読んだとき、私はしばらく、茫然とした気持ちになった。さらに、「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」と書かれ、すいませんと頭をさげるしかないが、ここには、「だめ人間」に対する近代人としての正しい認識がある。それゆえ、三島が、「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ」と書くのも無理はなかった。さらに、それに続けて三島は書く。
「第一私はこの人の顔がきらいだ」
といきなりこうきた。さらに、
「女と心中したりする小説家は、もうすこし厳粛な風貌をしていなければならない」
普通に読めば、太宰を完全に否定した言葉と解釈されるが、逆から考えれば、「だからこそ、真のだめ人間だ」と讃える言葉に感じる。そうか、あれが「だめ人間」の顔なのか。
 だめ的なるものを求めて、私は二十数年ぶりに、『人間失格』を読んだ。
『人間失格』は大半が主人公による手記の形によってつづられている。そして、作品の半ば、銀座のカフェに勤めるツネ子と心中するが自分だけが助かり生き残ったことを主人公はこう記した。
「死んだツネ子が恋いしく、泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから」
 事の成りゆきも、そして言葉も、そこにだめ人間の出現を感じさせ、「お、だめ人間登場」と思わず口にしたくなるが、問題はそのすぐあとの一節だ。入院中のことを彼はこうも書く。
「看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました」
 さっきまで泣いてたやつが、そんなことをわざわざ手記に書くなよと私は言いたい。ここにいたって初めて私は、「だめ」の一面を見たように思えた。
 では、芥川龍之介はどうなのか。
 自殺した小説家として芥川も忘れてはならないが、芥川の場合、太宰とはかなり事情が異なる。女と心中したのでもなければ、玉川上水に入水したのでもない。この二点をとっても、芥川の分は悪い。自殺すれば自動的に、「だめ人間」になれるほど、「だめ人間」は甘くないが、晩年の作品、『歯車』を読むと、そこになにか不気味なものを感じる。
 だめの気配がかすかに漂っているのだ。
『歯車』は、自殺を決意した彼による、その意識の状態を描いた短編である。司会の縁に回転する歯車が現れる。ひどい頭痛にも悩まされる。結婚式のパーティで出された料理の中に彼の目には蛆虫が見えもする。どうにも病的な印象は拭えないが、ただ一箇所、まったく理解できない不思議な言葉を発見した。往来を歩いている主人公の「僕」が、不意に次のように感じる。「暫く歩いているうちに痔の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に癒(なお)すことの出来ない痛みだった」。これだけでもかなりあれだが、問題はその先だ。いきなり「僕」はつぶやくのだった。
「『坐浴、ーベエトオヴェンもやはり坐浴をしていた。………』」
 何をつぶやいているんだこの男は。これもやはり「だめ」の一種なのだろうか。ちょっと判断しかねるところが、芥川の芥川たるゆえんかもしれないが、そこへゆくと坂口安吾はたいへんにわかりやすい。彼のエッセイのひとつだ。タイトルを一目見て、そこに、にじみ出るようなだめを感じた。
『僕はもう治っている』
 いきなりこうだ。この野放図な言葉の雰囲気はなんだろう。治っているなどと大っぴらに言うやつほど、じつは治ってはないのではないか。神経衰弱と催眠剤による中毒で東大付属病院の神経科に入院しているとき、病室から読売新聞に寄稿したエッセイである。
「ボクはもう治っている。去年の今ごろと同じように元気で、毎日後楽園で野球を見ているが、ボクはさらに、二十年前の若いころの健康をとりもどすためにもうちょっと入院するつもりでいる。秋までには長編小説を書き終り、それがすんだら縦横無尽に書きまくるつもりである」
 こうして、「ボクはもう治っている」と書き、「縦横無尽に書きまくるつもりだ」と書き、なんか、やたら威勢がいいが、威勢がいいだけに、まだだめなんじゃないのかと人に心配させる響きがこの言葉にはある。そのなんとも心配な雰囲気が、「だめ人間」のまた別の側面だ。
「だめ人間」の奥は深い。
 それで思い出すのが、明治から大正期に活躍した作家、岩野泡鳴だ。『泡鳴五部作』の、たとえば、『放浪』には、そのだめぶりが、見事に描かれている。
 泡鳴を思わせる主人公は、樺太で事業に失敗し札幌に住む知人の世話になる。そのあいだ、東京に残した妻が別の男と通じているのではないかと心配するが、また裏腹に、別に作った愛人からの手紙の返事がないと苦悩する。いちいちくだらないことで苦悩するのが、読む者にいやでもだめを印象づける。もうそんな女とは切れればいいじゃないかと忠告する友人に答え、
「そりゃア、それッきり、いくら手紙で事情を云ってやっても、向こうからの便りがないのだから、僕もさッぱりして、思い残りがなくなったわけだが、どうせ僕には女が入用だから、矢ッ張り気心の分ったものをつづけている方がいいから、ねえ。」
 などと言う。「いいから、ねえ」じゃないだろうと私は思う。だいたい、作家のくせに事業に手を出すのもどうかと思うし、「おれは宇宙の帝王だ!」と人前で演説するのも考えもので、坂口安吾の、「縦横無尽に書きまくるつもりだ」に似て、そういった種類のだめを感じさせる。岩野泡鳴がどういった人物なのかを調べたところ、当時、彼が人々から次のように呼ばれていたことを知って私は胸が熱くなった。
「偉大なる馬鹿」
 これはもう、「だめ人間」以外の何者でもないではないか。岩野泡鳴おそるべしだ。
 私は、「だめ人間」に憧れる。けれど道は遠い。だめの果てに現れる聖性は、なお遠い場所にある。